遵法の自己目的化

レビュー全然かいてない。
つい先日もSchadenfreudeの話や、血液型と性格の関係の話など、ネタにはつきないのだけれども。
明日からがんばる系クズ。



ちょっとおもしろいなとおもった記事があったので便乗。

真面目すぎると死ぬ - grshbの日記

自分で自分のことを真面目系クズという「偽悪的」なる点が引っかかるが、遵法の自己目的化という言葉は、僕が小学生の頃に感じていたもやっとした感情を言語化するにあたり、いいなと思った。

通学路の話だ。
日本小学校に通っていた人は、多くがそうだとおもうが、登校下校の通学路は、誰が決めたのかコレと決められていた。

ところが、僕の家から小学校までは何パターンか道があり、しかも決められていた道は最短距離ではなかった。
長方形の対角を家と小学校としたとき、対角線ではなく、辺の上を通っていくルートになっていたのだ。

「おかしい。」

小学生の時分から、いかに楽をするかということしか考えてなかった僕が、近道を使わない理由はなかった。
なかったのだが、登校時は保護者や団地の皆と集団登校になっており、そこから逸脱するほどの度胸もなかった。

しかし、下校時となると話は別だ。
集団下校というシステムもあった記憶があるが、校門をでれば僕を縛り付けるものは何もなかった。

僕は自由だった。
同級の西条君が「あー近道してるーせんせーにいってやろー」と言うまでは。

逸脱することは悪いことだという意識はあまりなかった。
ただ、せんせーなる大人に叱られるかもしれないという恐怖は、僕の楽したい心をポキッと折るのに十分だった。

それ以来、近道へ曲がるときは、周囲を見回し、誰も居ないことを確認してからにしたのは言うまでもない。



今になって考えると、このルールには合理的な理由がいくつもあった。

まず、近所で男児の誘拐殺人事件が起きていた。
この子は僕と同い年の生まれで、5才の時に誘拐されて身代金を要求する脅迫電話があったが、直後川に落とされて殺された。
確か未解決のまま時効になったはずだ。
集団登校、集団下校を励行する大人たちの判断とその気持ちは理解できる。

また、そういった事件がなくても、これくらいの子供というのは、行動が読めない。
帰り道のザリガニハンティングで、親を絶叫させたり泣かせた人は僕だけじゃないだろう。
少しでも奴らの行動を規定しておいた方が、何かあったときに大人たちが行動をとりやすい。

そしてなにより、理由はさておきルールを守るということを学習させるという目的において、こうしたルールの存在は大切なのかもしれない。
こういった学習が不十分だったから、僕は僕になってしまったのかもしれない。

でも、当時の僕にはこうした理由なんか知ったこっちゃなかったし、なぜルールなるものがあるのか皆目見当もつかなかった。
ただただ、せんせーなる不可解な生き物への恐怖と、西条君への憎しみがまざって、もやっとした感情がずっとのどに詰まっていた。

(余談だが、このもやっとした感情は、漢字書き取りの授業の時、たとえば漢字という漢字を10回書く練習をするときに、先に「さんずい」だけを10個書き、次に「くさかんむり」だけを10個書き・・・という効率化を行っていたところ、隣の席の宮下さんにひどく叱られた時にも発生した。)
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遵法の自己目的化という言葉によって、このもやっとしたのどのつまりにそれらしい名前を付けてみたけど、それでもなお臓腑に落ちてこない部分がある。

確かに、僕を脅迫した西条君は、大人たちの決めたルールを守ることそれ自体が目的化していた。

「ルールを守る理由はルールだから!」

小学生にこれほど清々しい同語反復を唱えさせる教育に、僕は畏敬の念すら覚える。

でも、彼らが真面目だったかというと、そんなことはない。
西条君は****だったし、宮下さんは******で****だった。

なーんも分かってない小学生の、ルールに対する態度に対してなにいっちゃってんの、という話は分かるが、遵法の自己目的化現象を見ると、小学生も大人もそう大差ないように見える。
そうなっているから。慣例だから。法律だから。みんなやってるから。

してみると、遵法の自己目的化というのはむしろ、真面目な人が陥る隘路というよりは、楽をしたい人が使う方便であって、そもそもルールの存在に気づき、その存在理由や、ルールの遵守/逸脱による利益/不利益を考える人の方が、よっぽど真面目なのではなかろうか。

そして、そういう人ほどよっぽど死に近い気がする。
だって、考えすぎると人って死んじゃう。



事ここに至り、ようやく積年ののどのつまりがとれたきがする。

僕は真面目な人間だったのだ。
そう考えると、辻褄が合う。

ルールに気づき、ルールを疑い、その存在理由を問い続け、長じてせんせー無き後には恐れるものもあまり無く、それによって常に周囲の真面目でない人たちと軋轢を生じさせるも、なお自分に不利益なルールに関してはかみつき、愚痴を言い、貶める。

こんな生き方、長生きできるはずがない。


もう少し不真面目に生きてみてもいいのかもしれない。そんな気持ちになった梅雨入りのある日。